おんぱく写真部レポート

秋晴れの中、JR岐阜駅前黄金の織田信長公像前に集まった面々、岐阜バスの路線バスを利用して路線沿線に残る織田信長公の足跡をめぐります。

案内人は岐阜市教育委員会社会教育課の高橋方紀氏、信長公発掘調査に携わり深く広い歴史知識で足跡を案内します。

岐阜駅を起点として岐阜市内を巡回する路線バス、市内ループ線は信長公の絵が書かれていてその種類は8種類あります。
岐阜駅11番乗り場から出発、最初に向かうのは円徳寺、岐阜駅から2区です。

信長公ゆかりの寺、円徳寺 本道の横には信長公ゆかりの梵鐘があります。
梵鐘に刻まれている銘には、織田信長公が陣地のあとを寄進してこの地に寺が移転したこと、この梵鐘を鋳造して寄進したことなどが、永禄7年11月11日の日付と共に書かれています。

住職のご厚意により梵鐘を突くことができました、子供たちは喜んで代わる代わる突いていました。

そのほか、市史跡の伝承織田塚も境内にあります。

円徳寺より東に行ったところに、今年新たに市史跡となった織田塚があります。
住宅地の中にあり、参加者は知らないとただ通り過ぎてしまうなあと、言っていました。
 織田塚は信長公の父の時代、織田Vs斎藤道三の戦いで織田軍が大敗をして、その戦死者の屍を集め葬り弔ったのが、この織田塚です、初めは物見塚と呼ばれていたそうです。

バスを待つ間にも、高橋氏の説明が始まります。
道三公、信長公が作った岐阜の町を分かりやすく話してくれました。

そして岐阜公園、岐阜城の麓にあり信長公がここより天下布武をとなえ、天下を目指した場所です。
 巨大な石を使った通路などここが初めてと言われていましたが、小牧山で巨石が見つかり、信長公が岐阜に来る前に小牧で使ったのが初とされました、歴史は変わるのですね。
 資料を使い分かりやすく信長公居館跡のお話を聞きました。

そしてサプライズ、普段は入ることの出来ない作業中の発掘現場に入って間近で見ることが出来ました。
 機械を使わず少しずつゆっくり掘りますから、新しい発見が出ると嬉しでしょうね。

それからさらにサプライズ、堀出たばかりの皿や瓦の欠片に触れることが出来ました。
これには子供も大人も興味津津、「それは信長公が触ったかもしれません」の言葉に歴史ロマンを感じることの出来た発掘現場でした。

崇福寺、この寺には織田信長公、嫡男信忠親子が明智光秀に本能寺の変で討たれ信長の側室が信長公の首級を岐阜へ持ち帰り葬った父子廟があります。
 位牌型の石碑に縦に分けて父子の法名を左右に並べて刻んであります。
 「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火自ずから涼し」 この言葉を聞いたことあると思いますが、美濃の国の生まれで快川紹喜(かいせん じょうき)の言葉です。
 戦国時代の臨済宗の僧侶で、この崇福寺の職を務めた岐阜にゆかりの僧です。
本堂中の天井には、血天井があります。
関ヶ原の戦いの前哨戦において、信長公の孫秀信は西軍に属し東軍の攻めに岐阜城が落城した時戦死した兵の霊を弔うため、城の床板を天井に張ったもので、血痕が付着しています、写真を撮りたいのですが中は撮影禁止なのでありません。

最終目的地濃姫の墓なるものが、岐阜市にあります。
京都本能寺の変の時、織田信長公と共に討死にし家臣の一人が濃姫の遺髪を持ってこの地に埋葬した、と伝われていますが、その家臣が誰かも分かっていません。
 また、京都の総見院(そうけんいん)にも濃姫の墓なるものもあります。
このお寺は、本能寺の変で亡くなった信長公を祀るために、豊臣秀吉が建立した寺でその中にも濃姫の墓碑があります。
没年は1612年となっていて信長公の死後30年生きていたことになりますが、その間のことはまったく不明です。

濃姫の墓前で集合写真、濃姫の霊が写っていたら本物の墓ですよね(笑)

 岐阜市内あちこちに信長公に関する足跡が残ってるのですね、参加者は初めて来たところもあって満足げに帰路の信長バスに乗り込みました。
(016 平山 晃)

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